止まり木の祈り

「——ゴミが入って、擦っちまった」
瞳を潤ませながら、レッドは貼り付けたような笑みを浮かべていた。拳で乱暴に拭ったせいか、目蓋の端は赤くなっている。
「この辺、埃っぽいだろ?」
じゃあ、また、と呟いたレッドの声は掠れていた。
踵を返し、レッドはクーロンの街並みへと駆け出す。まるで、追わないでくれ、と言うように、レッドは群衆の中へと、その影を紛れさせた。
「あっ……おい、レッド!」
遠ざかっていくレッドに向けて伸ばしかけた手を、ぴたりと止めた。
――このまま追いかけて、俺は、アイツに何を言えばいい? 涙を隠したアイツに、どんな言葉をかけてやれる?
当て所なく彷徨う指先を下ろし、どよめく大通りに視線を投げる。胃の底がすっと冷たくなっていく感覚に、深く息を吐いた。
降り始めた雨に晒されて、人々の喧騒も、レッドの足跡も、形を失っていく。残ったのは、重く淀んだ静寂と、ひび割れた路面に映る一つの影だけだった。

クーロンの古い宿屋は、部屋の鍵なんて、あってないようなものだった。硬すぎるドアノブはその役割を放棄し、軽く押すだけで簡単に扉が開いた。黴臭い空気の充満する室内で、微かな呼吸の音だけがしている。
寝台の上で、布団もかけずに眠るレッドの姿は、どこかあどけなさが漂っていた。
額には汗の滴が点々と浮かんでいる。色の失せた頬には、まだ乾かない涙の痕が、痛々しく残っていた。
嫌な夢でも見ているのだろうか、レッドが小さく唸り、眉間に深い皺が寄る。そっと近づき、濡れた目蓋の端を指先で拭うと、レッドは身じろぎをして、唇を震わせた。
「——父さん、ごめん、ごめん……」
絞り出すような声に、心臓が、どくん、大きな音を立てた。呆然とした頭の中で、点と点が繋がるように、記憶のピースが浮かんでは駆けていく。
クーロンの裏路地の荒れ果てた部屋。ヘリポートに飛び散った機械の破片と、赤黒い血痕。倒れた銀髪の改造人間と、黒く焦げたコンクリート。燃え落ちたシュライク郊外の邸宅。そして、レッドの涙。
ばらばらになっていたパズルが完成した瞬間、俺は、心のどこかでわだかまっていたある疑念に、はっきりと答えが出てしまったことに、全身の血液が凍りつくのを感じた。
「……そういう、ことかよ」
こめかみを撃ち抜かれたような衝撃に、視界が眩んだ。
レッドが時々、彼方を見るような目をしていたのも、アルカイザーが現れた時に、レッドの姿が消えていたのも、何もかもに合点がいった。
アルカイザーは、いや、小此木烈人は。たった一人で、すべてを背負い続けてきたのだ。
「なんで、そうやって、お前は……!」
怒りでも、嘆きでもない感情が胸に渦巻いた。爪の先が食い込んだ手の皮膚が、焼けるように疼く。それでも俺は、叫ぶこともできずに、ただレッドの側で立ち尽くしていた。
レッドは、いつだって他人を守ろうとしてきた。仮面の下で流した血も涙も、どれほどのものかわからない。受けた痛みも、傷痕も、困っている人を助けられたならそれでいいと、レッドは笑っていた。
夏の太陽のような笑顔に隠された苦しみを、地獄の業火にその身を晒す理由を、レッドは、誰にも触れさせようとはしなかったのだ。
じゃあ、たった一人のヒーローを守れるのは、一体誰なんだ。十九歳の、大きなようで、小さな背中を、誰が支えられるのか。
ずっと側にいたのに、俺は、レッドのことを何も知らなかった。レッドのことを理解していたような顔をして、俺は、何もわかってはいなかった。
目の奥が熱くなり、視界が滲む。震える喉から嗚咽が込み上げてくるのを、歯を食いしばって堪えた。
――涙を流していいのは、俺じゃない。
眦に浮かぶ雫を袖で拭って、床に膝をつく。乾いたレッドの掌を、両手でそっと包んだ。
指の付け根に残る潰れた豆の痕も、歪んだ爪の形も、十九歳のレッドが、必死に生きて、戦い続けた証だ。ひとつひとつが哀しくて、愛おしくてたまらなかった。

せめて、彼の征く道の先が、光に照らされたものであることを。
せめて、彼の側にいることを、その背中を守ることを、許してほしい。
傷ついた翼を休ませる、止まり木で在らせてほしい。

神へ祈りを捧げるように、両の掌を強く握りしめた。
それは、俺にできる精一杯の償いで、もしかしたら、愛だったのかもしれない。

あとがき

「静かな朝」の対になる話ですね。別名答え合わせパート。生意気な小僧と思っていたレッドが本当は誰にも自分の背負った宿命を話せずに一人で戦い続けて来たことを知った時、ヒューズはきっとその助けというか、支えてやれる大人でありたいと思うのではないかな~と考え続けてました。それにしても湿度が高い!笑
イメージBGMは椿屋四重奏のLOVERでした。

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