静かな朝


ひりひりと痛む重い目蓋をゆっくりと開ける。ぼんやりと霞んだ視界には、クーロンの古い宿屋の、まだらにシミの残る天井が映った。
布団もかけずに眠ったのに、全身が汗でずぶ濡れだった。水分を含んで重くなったシャツが、肌に冷たく張り付いて、ひどく気持ちが悪い。泣きすぎたせいだろうか、こめかみのあたりがズキズキと脈打っている。
眠りの中で、幼い頃の夢を見たような気もした。父さんと、母さんと、藍子が笑っていた。家族四人で過ごしていた頃の、もう戻らない遠い日の夢。
優しい記憶の温もりに浸っていたいのに、枕から漂う黴の臭いが、意識を嫌でも覚醒に導いた。
「幸せ、だったな」
幼い頃の俺に向ける、父さんの柔らかな笑顔を思い出す。大きな掌が髪に触れようとした、その瞬間。
鋼鉄と、柔らかい肉を穿つ衝撃が、すべてを奪い去った。オイルと混ざった血液の生ぬるさと、耳をつんざく絶叫が鮮明に蘇り、視界が色を失いながらぐるぐると廻る。
胃の底から酸っぱいものが込み上げてくるのを必死で耐えながら、この現実こそが、今の俺が生きる日常なのだと改めて認識した。
――もう、一人ぼっちなんだな、俺。
空っぽになった心とは反対に、腹の中にずんと重いものが埋め込まれたようで、呼吸をするのも精一杯だった。
それでも、どくどくと音を立てる心臓が、自分がまだ生きているということを、苦しいくらいに思い知らせる。俺はまだ、あちらには行かせてもらえないのだ。
鼻を啜りながら、鉛のような身体を起こそうとした時、ふと、誰かの呼吸の音が、耳に響いた。
鍵をかけ忘れたのだろうか。このクーロンでそんな真似をするなんて、不用心にもほどがあると、昨夜の自分に呆れる。けれど、心のどこかで、それでもいいか、と納得してしまう俺もいた。
――今さら失うものなんて、何もないじゃないか。
もうどうなっても構わない。諦めにも似た心のまま、ゆっくりと身体を音のする方へと向ける。視線の先にあったのは、黒いシャツに身を包んだ、茶色い癖毛の、良く見知った男の姿だった。
「ヒュー、ズ……?」
乱れた前髪、規則的な寝息、眉間に刻まれた皺の痕。床に膝をついて眠る彼の右手は、まるで、ずっと何かを握りしめていたように、その形を残していた。
――側にいてくれたのか。一晩中、ずっと。
シーツに顔を伏したままのヒューズの髪に、そっと指を通す。柔らかい癖毛を爪の先に絡めながら、この仕草が、誰かのものによく似ていると、ふと思い出した。
「……ああ、そうだったっけ」
これは、ヒューズが俺にしたのと、同じものだった。
ヒューズは、口では何かと文句を零しながらも、俺が傷を負えば、何度も心配そうに駆け寄ってきた。
ヒーローとしての正義感と、復讐心とで頭がぐちゃぐちゃになって、心が泥濘の底に沈みそうになった時。ヒューズはいつの間にか隣にいて、何も言わず大きな手で髪をぐしゃぐしゃと撫でてきた。
昨日だってそうだ。一人で流した涙の理由も聞かず、ただ、そっとしておいてくれた。からかうこともなく、真剣で、見つめられ続けたら、子どものように泣きじゃくりたくなるような眼差しを、俺に注いでいた。
ヒューズの不器用な優しさに、俺は、生かされていたのだろう。
どんなに跳ねのけようとしても、決して一人にはしてくれない。ヒューズは、そういう男だった。
「……ホント、お節介な、おっさん」
零れ落ちる涙が頬を伝うのを拭うこともできないまま、その手に俺の手を重ね、強張る指先をぐっと曲げる。
乾いた皮膚に伝わるヒューズの体温が、凍えた心を溶かしていくような気がして、救いを求めるように、その手に縋った。
この胸を燃やす痛みは、罪は、決して消えることはないだろう。ならば、どんな罰だって受けよう。
この身を包む炎が地獄の業火ならば、骨の一片まで灰になっても戦い続けよう。
それが、正義の使者・アルカイザーとして生きることを選んだ俺の、たった一つの使命で、残された道だから。
けれど、今だけは、差し伸べられた温もりに縋るのを許してほしい。握りしめた硬い掌の感触が夢ではないと、祈ることしかできなかった。

静けさが満ちる小さな部屋には、朝の光が差し込んでいた。

あとがき

フォルダの中に1年くらい眠ってたデータをお焚き上げ。あ、あまりにも厨二病すぎて恥ずかしい……(笑)
ヒューズはレッドを向こう側には絶対行かせてくれないだろうなと思います。
イメージソングは中田裕二さんの「静かな朝」「わが身ひとつ」でした。静かな朝を初めて聴いた瞬間に「ヒュレだー!!」と大騒ぎして書き始めた記憶がある。

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