夕轟
「よう、正義のヒーロー。……って、今は普通の青年だったか」
悪の組織ブラッククロスとの長い戦いを終え、生まれ故郷であるシュライクで平和な日々を過ごしていた俺、小此木烈人は、突然の来訪者に目を丸くした。
「なんだ、おっさんかよ……。こんなとこで、一体何やってんの?」
「またそれかよ。若いつもりなんだけどなぁ」
聞き覚えのあるその声の主は、俺がブラッククロスを追っていた時に出会い、いろいろと世話になった警察組織の、ちょっと口うるさくて、世話焼きなおっさんの、ヒューズその人だった。予期せぬ再会に面食らった俺を尻目に、ヒューズは、まるでそこが特等席だとでも言わんばかりに、隣にどかりと腰掛け、ベンチの大半を占領する。
「仕事終わりだよ。最近この公園でまた不審者が出たっていうんで、パトロールに来てたってワケ」
そう言いながら、ヒューズは大きな欠伸をする。切れ長の目の下にはうっすらとクマが浮かんでおり、捜査官という仕事の多忙さが見て取れた。
「今日も朝から働きづめよ。あっちで事件、こっちで事件ときたもんだ。もうモテモテで困っちゃうね、ホント」
「うっへえ……。お巡りさんも大変なんだな」
「IRPOも人手不足でね。おまけに安月給ときた。もうたまんないよな。……ま、ちょっと一服させてくれよ」
ぶつくさと愚痴を吐き出しながら、ヒューズはジャケットのポケットから、手のひらほどの大きさの箱を取り出し、タバコを一本揺すり出して口に咥えた。使い古したオイルライターを使い、慣れた手つきで火をつけると、大きく息を吸い込み、ふ、と煙を吐き出す。ゆらゆらと立ち昇る一筋の煙と、タバコを咥える形の整った唇をぼうっと見つめてしまう。黄昏時の薄明りに照らされるその姿は、まるでドラマのワンシーンのようだ。
——確か、ホークもタバコ吸ってたんだよな、たまにだけど。
ふと、かつてキグナスで見習い機関士として働いていた時の恩人の姿が頭に浮かんだ。機関士長であった彼が、自分の前でタバコを吸うことは滅多になかった。しかし、時折すれ違い様にほのかに漂う紫煙の香りが、鼻腔をくすぐったのをよく覚えている。その香りが、「大人の男」という感じがして、ほんの少しだけ、憧れのような気持ちを抱いたこともあったのを、揺らめく煙を眺めながらぼんやりと思い出した。
「どうした、そんなにじーっと見つめちゃって。タバコ吸ってるやつがそんなに珍しいか?」
からかうような声がして我に返ると、ヒューズは目を細め、にやりと口元を緩ませた。いつの間にか一本目のタバコを吸い終えていたようで、携帯用の小さな灰皿に吸殻を収めているところだった。
「俺が何しててもサマになる男だからって、あんまり見惚れられると照れちまうぜ~?」
「ッ、見惚れてなんか、ないっての! 自意識過剰な奴はモテないぜ」
言われたままなのが無性に悔しくて、思わず大声で言い返すと、ヒューズはけらけらと笑い声をあげた。
「ムキになってんじゃねえって」
やれやれというように首を小さく振ると、ヒューズは次のタバコを取り出した。その手元が視界に入った時、前々から疑問に思っていたことが、ふと口をついて出る。
「なあ、おっさん。タバコってどんな味がすんの?」
「……あん?」
俺の言葉が思いもよらなかったのか、ヒューズは眉根を寄せ、手をひらひらと上下に振る。
「やめとけやめとけ。こんなもん身体に悪いぜ?」
「おっさんのこと見てればわかるって。いっつも煙くさいし」
「こんのクソガキ……。じゃあ、なんでまたそんなこと聞くんだよ」
眉間の皺を一層深くし、訝しむような視線を浮かべたヒューズだったが、俺の顔を見て何かを思いついたのか、にんまりと口の端を上げた。
「あっ、もしかして非行に走ってみたいってヤツかぁ!? 生意気言っちゃって! 逮捕しちゃうぞ~? なーんてな」
「そんなんじゃないって! ただ……」
「ただ?」
こちらをじっとのぞき込むようなヒューズの視線に、少しだけ言い淀んだが、取りつくろうように言葉を続ける。
「……ただ、ちょっと気になっただけだよ。俺、タバコなんて吸ったことないし、どんな味がするもんなんだろうなって」
口に出してみてなんとなく恥ずかしくなり、鼻の頭を掻く。半分くらいは、ただの好奇心だった。でも、なんとなくだけど、「大人の男」である彼らの世界に、少しだけ踏み込んでみたかったのかもしれない。それに、紫煙を燻らすヒューズの姿が、ちょっとだけかっこいいな、なんて思ってしまったのもある。そんなことを言えば、からかわれるだろうから、ヒューズには絶対に言わないけど。
「はーん、なるほどねえ。ヒーローくんもそんなお年頃…ってワケね」
独り言のように呟きながら、ヒューズは少し考え込むような、何か遠い思い出に浸るような顔を見せると、手にしていたタバコを、ずいとこちらに差し出した。
「ほらよ」
「えっ?」
意外な言葉と、差し出されたものに戸惑っていると、ヒューズはふっ、と笑い、言葉を続けた。
「物は試しって言うだろ。まあ、一本どうだ?」
片目を瞑り、口の端を少し上げて微笑む。そこには先ほどまでのからかうような様子は微塵もなかった。唾をごくりと飲み込み、恐る恐る手を伸ばしてタバコを受け取り、そのまま見よう見まねで口に咥えてみる。たったそれだけのことなのに、なぜか胸が高鳴った。
「……これで合ってる?」
ドギマギとしながら、ヒューズに尋ねる。
「なかなかサマになってるぜ。んで、吸い方だけど、いきなり大きく息吸うとむせるから初めは少しずつに……って、あー!」
鼓膜が破れるのではないかというような叫びをあげるや否や、ヒューズは血相を変えて俺の手からタバコをひったくった。
「急にでっかい声出すなよおっさん!」
「悪い悪い……じゃなくて、お前、確かまだハタチになってなかったよな……?」
「あ、うん。まだギリギリだけど」
はあ、と大きく溜め息をつき、ヒューズは決まり悪そうにがしがしと頭を掻きむしった。
「あっぶねー……天下のIRPO隊員ともあろうものが、未成年にタバコを吸わせたなんてことになったら大目玉だ。火ィ点ける前で助かった……」
ヒューズはぶつぶつと呟きながら、俺から取り上げたタバコを咥え、火をつけた。意にも介さないような様子に、呆気にとられる。だって、そのタバコは、俺がさっき。
「おい、おっさん。それ……」
俺の言葉など耳に届いていないらしく、ヒューズは腕を組み、ぶつぶつと一人で小さく呟き続ける。
「でも、せっかく期待させちまったわけだし、このままハイ、お預け~ってのもなぁ……」
しばらく俯いてうんうんと唸り続けた後、ヒューズはパッと顔を上げ、俺の目をじっと見つめる。
「お前さ、ちょっと目瞑ってられるか」
「えっ、なんで?」
「いいから。俺の言う通りにしてろって」
いまひとつ意図がつかめないまま、されるがままに目を瞑る。肩に手を置かれ、ヒューズがごくりと唾を飲む音が聞こえる。
「よし」
小さく呟く声を耳にした、次の瞬間だった。
微かな声と共に、柔らかくあたたかいものに唇が塞がれた。熱い吐息と、苦い煙の味が口の中に流れ込んでくる。
「ちょっ、ふっ……、ん……ぅ」
キスをされている、と理解するまでには、時間がかかった。突然の出来事にやめろ、と突き放そうとするも全身に力が入らない。肩にあった手はいつの間にか腰に回され、がっしりとホールドされている。ちくしょう、なんでこんなに力いれてんだよ、おっさん。
「んーっ、ふぅ、ん……」
電流が流れたかのように目の奥がチカチカする。心臓が破裂しそうなほどバクバクと早鐘を打ち、呼吸がうまくできなかった。 酸素の足りなくなった頭は、ふわふわとしてうまく回らない。
戸惑いと苦しさで涙が溢れそうになり、目を開けると、琥珀色の瞳と視線がぱちりと合う。一際大きな鼓動が胸を打ち、全身の血がすべて集まったんじゃないかってくらいに顔が熱くなった。
——あ、おっさん意外とまつ毛長いんだな。
回らない頭のままぼんやりと見つめていると、ヒューズの唇が離れ、ようやく十分に呼吸ができるようになる。身体の中に取り込んだものに噎せ込み、ケホケホと小さく咳が出た。
乱れた息を正そうと肺を目一杯に働かせていると、不意に頭をこつんと小突かれる。
「目瞑ってろっていっただろ、バカ」
「っ、痛ってぇ……殴ることないじゃん」
「お前が言うこと聞かないからだろ。で、肝心のお味の方はどうだった?」
ふふん、と得意気に口元を緩ませながら、ヒューズは腕を組む。
どんな味だったかなんて、全部吹っ飛んでしまうくらいに、衝撃的な経験だった。ドクドクと高鳴る心臓を押さえながら、まとまりきらない思考で、微かに残った煙と一緒に、言葉を吐き出す。
「……よく、わかんなかった」
「だよなあ。ま、大人の味ってやつだよ」
あっけからんと言い切られ、思わず抗議の声をあげた。
「……じゃなくって! 俺、初めてだったんだけど!」
「あ、ホント? 煙たかったか?」
「そうじゃないって! だから、その……」
とぼけているのか、悪びれもなく言って見せるヒューズを殴ってやりたくもなる。もちろん初めての経験だった。ファーストキスはレモン味、などという噂話を信じていた自分が、どうしようもなく憐れに思える。
でも、あの胸のドキドキは、決して不快感から起こったものではない。むしろ、胸をくすぐるような、その先をもっと知りたくなるような、未知の感覚だったと思う。この気持ちは、一体何なんだ。なんでヒューズは、俺に、そんなことをしたんだ。
ぐるぐると思考を巡らせていると、ヒューズが不意にわざとらしく大きな声を出した。
「あーっ! そうだった! 俺、明日も朝早いんだったっけ! お前も親御さんが心配しないうちに帰れよな?」
そういってぎこちない動作で立ち上がり、そのまま手をひらひらと振りこちらに背を向けて歩き始める。
「あっ、おい、おっさん! 待てって! まだ話が……」
呼び止める俺の声に振り向きもせず、ヒューズはそのままいそいそと早足で去っていく。その姿は、まるで顔を見られたくないかのようにも思えた。
「……何だったんだよ、あれ」
一人取り残され途方に暮れる。ふと、先ほどまで触れていた唇の感触を思い出す。ぶっきらぼうで短気で、だけど面倒見がよくてかっこつけの、俺が知っているヒューズからは想像もできないくらいに柔らかくて、糸を引く唾液の感触すらも唇は覚えていた。だって、あれは。
「俺のファーストキス……だったん、だよな……?」
——でも、嫌じゃないのは、なぜだろう。
改めてそのことを自覚し、顔が燃えるように熱くなるのを感じた。
いつの間にか辺りは夕闇に包まれており、ひんやりとした空気が満ちている。紅潮した頬に吹く風が、いつもよりも冷たく感じる。口の中に残る紫煙の匂いと息苦しさに、一人きりの公園で小さく咳をする音が響いた。